「君の名は。」感想:新海誠と僕の立ち位置
「君の名は。」観たのでこちらも軽く感想をば。
総じて面白い映画だったのは間違いないのだが、「秒速」「言の葉」のときのような突き刺さり感はなかった。
どうしてだろう、と考えていた結果、1つのインタビューにその理由の一端を得た。
「ディレクター」という立ち位置を明確にして、今までとは一歩距離をおいて映画を作ったのは今回がはじめてではないだろうか。
「映画監督」=「director」としては、いままでの関わり方よりもこちらの関わり方のほうがより語義に即しているとは思うが、結果として、そのせいで、今まで自分が新海誠の映画に感じていたフェティシズムっぽいものが少々薄まっていたように感じる。
例えば、「秒速」における病的に描き込まれた新宿駅の描写とか、「言の葉」におけるユキノの素足とか。
「君の名は。」にも比するモチーフはあったとは思うけど、あくまでこう「新海誠的な」感じを出すための描写っぽい感じがして、そこに必然性とか、執着とかそういうものを感じることが少なかったなぁ……と(田中将賀のキャラクターデザインで隠れた部分もあるとは思う)。
ただ、それが原因でこの映画のクオリティが毀損されているというわけではなくて、単に「好みの問題」だとも思う。
「秒速」「言の葉」「君の名は。」のどれもがボーイミーツガールを中心に動く物語ではあるが、順を追ってより内省的⇒非内省的に変わっていき、物語として、より「キミとボク」"以外"の部分とのかかわりについての比重が強くなってきている。
(「星を追う子ども」…… あっ(察し))
どのあたりにバランスを置くか、は、すなわち映画をどのように作るか、ということにリンクしていると思われ、内省的であればあろうとするほど作品には「アーティスト」として孤独に向き合わなければならず、非内省的に、最大公約数的に作ろうとすると「ディレクター」としての役割が持つ比重を高めなければバランスが取れなくなるのではないか。
「好みの問題」とは、そのどのあたりのバランスが映画を観る自分の肌に合っているかどうか。というところで、これは単にマーケティングの問題だろうと思う。
「秒速」「言の葉」が自分に突き刺さったのはまさにその点で、「秒速」は大学入りたての暗黒期とも言える時期の自分の心象傾向に、「言の葉」は社会人なってしばらくしてから、理不尽とも上手く付き合って折り合いを付けていこうという自分の心象傾向に、それぞれの映画の「内省度」的なモノがビタっと合っていた。いわば、その時々における「僕のための映画」だったのだなぁと。
一方で「君の名は。」は、前述のインタビューのタイトルにもあるように、「全ての人たちに楽しんでもらいたい 」ある種最大公約数的な作り方をしているからか、「自分に寄り添ってくれた新海誠作品」という幻想が頭のすみっこに居たままの自分にとってはあまりグサっとくる作品にならなかった、ということなのだろう。
新海誠は同インタビュー上で"だからこそ、次からは同じ作り方はできないんだろうなとも思っています。"とも述べているので、次の作品では「アーティスト」的な作りを志向して、結果として自分に刺さる作品になるかもしれないし、そうでないかもしれない。
どちらにせよ、「ディレクター」としてもあれだけのものを作れる能力があるということを示したという点で、僕が持つ新海誠という作家への信頼性は上がっているので、多分次の作品も観にいくことになるだろうなぁとは思っています。
ただ、新海誠が内省的な作品を作らなかったら、一体誰が作るんだ!!!!???という風にも思うので、次は是非「アーティスト」志向で作品を作ってほしいものだなぁ、と個人的には思います。