シン・ゴジラ感想:虚構の恐怖、傍観の背徳
ほとんど更新されない当ブログですがひさしぶりに衝撃を受け、長文を書きたくなったので更新。
シン・ゴジラを観た。
結論を先に言うと、映画を観てこんなに興奮したのは久しぶりってぐらい興奮した。以下ネタバレも交えつつの感想ですので、まだ劇場に行ってない人は是非行ってから読んで欲しい。
公開初日に観にいったのだが別に熱心なファンだからそうしたというわけではなく、金曜の晩飲む相手もいないし暇だなぁどうしよっかなーと考えてたときに今日公開の旨がtwitterのタイムラインに流れてきたので、ちょうどいいしレイトショーで、って感じで非常にユルく、身構えずに劇場に行ったのを覚えている。
だからスタッフなどの前情報もほとんど入ってなくて、そういや樋口監督進撃の巨人実写でボッコボコに叩かれてたし大丈夫かなぁ(なぜか庵野監督のことは深く考えてなかった)とか、まあ正直あんまり期待してなかったというのが実際。
んで。今の東宝ロゴ⇒昔の東宝ロゴと移り変わる演出に、あ~初代リスペクトなんかねーと思ったのもつかの間。
最初の10秒で「あれ、思ってたんと違うぞ」と一発目の衝撃を食らう。とにかく1カット1カットが早い、早すぎる。一気に情報量がバーンと増える。金曜、仕事終わりだったので頭は完全にリラックス、オフ状態になっていたので、一気に脳の処理速度を引き上げられる。
そこからはひとつひとつのシーンが意味することを咀嚼し、処理していく心地良さを感じながら場面は進んでいく。めまぐるしいカット割とか廊下を歩く音とか立て板に水の官僚話術とかにとても音楽的な気持ちよさを感じたことも覚えている。
後から振り返ればこのシーンを観ている時、自分は「完全に油断していた」。登場人物に置き換えるならば、総理大臣以下、中心閣僚の楽観派たちと似た気持ちだったと思う。会議室での緊迫しながらもどことなく危機感に欠けるやりとり、最初に上陸したゴジラのグロテスクながらも間抜けな表情(正直、立ち上がるまではゴジラじゃない別の怪獣とも思っていた)などを観て、あまり切迫した怖さというのを感じなかった、というのが正直なところ。
一度目のゴジラ上陸時、押し流されるボートやなぎ倒されるビルを見て、先の震災被害のフラッシュバックから想起される恐怖も想定していたのだと思うが、震災を直接体験していない自分としては(詳細は述べないが、311のタイミングでたまたま海外に居た&関西在住だった)「そういう恐怖を想起させる演出なんだな」と斜に構えた見方になってしまっていた。
結果として、この油断した自分の状況が衝撃をブーストさせるのに一役買った。
話が飛ぶが、映画にせよ音楽にせよライブにせよ、自分にとっての名作/名演かどうかの判断基準は、自分の感情がある「閾値」を超えたかどうか、みたいな感覚がある。全体としての出来がどうだったかよりも、ある「閾値」を越えた一瞬があったかなかったかが優先される(全体の出来が閾値を超えないものは「良作」「良演」にカテゴライズされる傾向)。
なんとなく言い方が弱いので言い換えると、自分は割と斜に構えるほうで、素直に作品を受け入れられずにまずはシールドを張って近づいてしまうきらいがある。作品を通してそのシールドが破壊されて生身に攻撃を受ける一瞬があったかどうか。それが名作/名演かどうかの判断基準になる。
この映画においてそれが破壊される一瞬。
言うまでもないかもしれないが放射熱線による東京破壊のシーンだ。
まず油断。
米軍の貫通弾がゴジラに「効いた」時の「何とかなるかも」という弛緩した空気。
それを受けてゴジラが吐き出した赤色の火炎がじゅうたんのようにゴジラの足元を焼いた瞬間の「あ、でもこんな程度で済むんだ」というまさに対岸の火事を眺めるような心持ち。
そして破壊。
のろまな赤色の火炎が、強烈なレーザービームに切り替わった瞬間。
見知ったビルが次々と、これでもかと破壊、というより両断されていく様を観てそこまで自分にあった余裕は一気にカスカスの空っぽになる。今まで味わったことがないぐらいの絶望感をこれでもかと叩きこまれる。スクリーンという虚構を前にして、「もうやめてくれ!」と叫びたくなる気持ちが湧き上がっていく。
ここまで自分の恐怖が呼び起こされるとは思わなかった。
これは今回のゴジラの放射熱線が「細く、高速で、硬い」「射程無視の貫通ビーム」という形態だったことが起因していると分析している。自分の記憶にある所謂「vsシリーズ(vsスペースゴジラ、vsデストロイアなど)」のゴジラの放射熱線は、ぶっとくて力強いが、遅く、やわらかく、ゴジラの攻撃が命中するのは特定の敵怪獣固体で、その攻撃は自分には向かわないという(当たり前なんだけど)どこか「傍から見る」ことのできる攻撃だった。
今回のゴジラの放射熱線は「超長射程の全範囲攻撃」だ。
逃げ出した総理大臣以下中心閣僚の乗ったヘリが放射熱線の直撃を受けて大破すると、その攻撃が「自分にも届くのではないか?」というありもしない疑念が頭をもたげる。虚構の恐怖ににじり寄られる。
一方で「これは虚構だ」と認識しているもう半分の、現実側の自分は、東京という世界有数の大都市が受けるまさに圧倒的破壊を、背徳的な快感をもって傍観する。
恐怖と背徳がないまぜになったどろどろした感情がとめどなく流れ、圧倒的な興奮とともにシン・ゴジラは僕の「閾値」を超えた。
あのシーンを観た衝撃を今後忘れることはないと思う。
…… ここからの展開も語りたい、語るべきポイントは沢山あるのだが、あのシーンの印象がむちゃくちゃ強かったのと、正直ちょっと書くのに疲れてきた、、ので詳しくは言及しないことにする。笑
あのシーンの後はなんというかウイニング・ランのような気分で眺めていたように思う。じゃんじゃんばらばら玉が出まくるパチンコ台のように、おもしれーおもしれーって思いながら観ていたような。パチンコやったことないけど。
新幹線爆弾⇒在来線爆弾のくだりとか最高だったなぁ。
さて。
今回のシン・ゴジラを観た自分の状況は本当に恵まれていたな、と思う。
いろいろなところで、名作!とか傑作!とか聞いたり前情報を仕入れまくったりした後に劇場に行ってしまうと、身構えてしまってこの新鮮な感情を味わうことはできなかった可能性もあるのではないか。
これを読みきってくれたのはおそらく劇場に行かれた方ばかりだとは思うが、できる限り多くの人に新鮮な気持ちであのシーンを、あの衝撃を味わってもらい、そしてその衝撃について語り合いたいと思ったのでした。おしまい。